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[説教要旨]2015/08/09「キリストの愛にとどまって」ヨハネ15:9-12 エフェソ2:13-18

平和を求める礼拝 初めの日課 ミカ書 4:1-5 第二の日課 エフェソの信徒への手紙 2:13-18 福音の日課 ヨハネによる福音書 15:9-12  本日は先週に引き続き、私たちは平和に思いを寄せ、平和を求める主日として礼拝に集っている。8/15には敗戦から70年目を迎える。悲惨なあのすさまじい暴力の嵐をもう二度と繰り返したくないという強い思いが、この70年を支えて来た。しかし今日、その思いはむしろ逆風の中にあるように見える。その背後にあるのは、失うことを恐れ、敵意と憎悪を剥き出しにして、祝福の全てを奪い取り独占するための力を持たなければ安心出来ないという、現代の日本社会が抱えている深い闇であると言える。私たちはこの闇をどのように乗り越えてゆくことができるのだろうか。  本日の第2の日課であるエフェソ書では「(14)実にキリストは私たちの平和であります」と語られている。この「平和」という言葉は、ここでは特に2つの意味をもって私たちに語りかけている。第一に、それはキリストによってもたらされた人間と神との間の平和・和解である。それは私たちが、神の祝福をそれそのものとして受け止めることができるようになる、言い換えるならば、私たちが神の祝福を受けるにふさわしいものへと変えられる、ということであった。第二に、その神の祝福は私たちを、私たちの間の分断を超えて結びつける。エフェソ書では、ユダヤ人と異邦人という2つのグループが挙げられている。これらのグループは文化的なプライドや宗教的な習慣等によって、互いに排除しあうものであったが、今や「キリストという平和」によって、一つに結びつけられているのだと聖書は語る。おそらく、2つのグループは「キリストの平和」など望んではいなかったのではないだろうか。むしろ、自らが積み上げてきた文化的な伝統や理念が崩されることがないように、神の守りと祝福を願い、自分たちのポリシーを貫こうと、互いに強硬な姿勢を取ったのではないだろうか。しかし、そこに与えられた真の神の祝福は思いもかけないようなものであった。その祝福は、今あるものには向かわなかった。むしろ今ある彼らが積み上げたものを「隔ての壁」として取り壊し、その彼方に目に見えない希望を約束するものであった。  対立と不安の渦巻くこの現代の状況の中で平和を私たちが本当に求めるならば、私たち自身の中にある隔ての壁が取り壊されなければならない。見えるものは私たちを引き裂き争わせるが、見えないものは私たちに祝福と平和をもたらす。けれどもその壁を壊すことができるのは、私たちを祝福を受けるにふさわしいものへと変えられるのは、主イエスご自身に他ならない。主イエスはその十字架によって私たちの中の隔ての壁を取り壊し、私たちのただ中に永遠の祝福と平和をもたらされたのだった。  本日の福音書の日課では、主イエスの愛のうちに生きる私たちのあり方の問題について、私たちの歩み方の問題について語る。私たち自身の中から出て来る愛といえば、それはいわば独占する欲望であり、暴力を求め憎しみをもたらすものでしかない。それに対して主イエスの語られる愛とは「与える愛」であった。主イエスは、そのような愛によって私たちを満たし、憎悪と暴力から私たちを解放される。主イエスの愛の戒めは、私たちが、愛と和解への道、対話への道を歩むための力の源に他ならない。  このキリストの愛の中に生きる私たちは、今や新しい人として造り替えられている。たとえ私たちの力が小さく弱いものであり、私たちの前にある闇がどれほど深いものであるとしても、私たちの希望の光は消えることはない。なぜならば、私たちの希望の光は、十字架の絶望の死を超えて輝くからである。主イエスの愛、神の祝福こそが、私たちを力づけ、愛と和解の道を歩ませるのである。