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[説教要旨]2015/08/16「世を生かすための命」ヨハネ6:51−58

聖霊降臨後第12主日 初めの日課 箴言 9:1-6 第二の日課 エフェソの信徒への手紙 5:15-20 福音の日課 ヨハネによる福音書 6:51-58 去る8/15には、多くの犠牲者を生み出した悲惨な戦争に日本が敗北してから70年目という節目の時を迎えた。その前日8/14には、この70年目にあたっての首相談話が発表された。全体に反省と謝罪を想起させるキーワードがちりばめられたこの談話は、現在の日本国内では、概ね妥当なものと見なされているようである。しかし海外メディアからの評価は、過去への反省は過去の引用だけに留まり、首相自身は謝罪の言葉を述べなかった、という評価の方が目についた。私自身はこの談話に、家庭内暴力の加害者が、暴力にもそれなりの理由や原因があると言って過去の自らを正当化しようとする者の姿が重なった。多くの家庭内暴力の加害者は、自分が一方的に悪くて暴力を振るっているのではない、という言い訳をするという。家庭内暴力の加害者は、自分と相手との間にお互いに尊敬し合い、いたわり合う対等な関係をつくることがイメージしにくいという特徴がある。自分こそが正しいと思い込み、相手の正当な主張に対して、自分の権威に対して挑戦されているのだと考え、あまつさえ復讐心さえ抱き、さらに相手を圧倒しようと考える。そしてそのためには自分は何をしても許されると思い込み、暴力がさらに激しくなることになってゆく。私には、今日本社会がおかれている状況が、まさにこの暴力の加害者のあり方に刻一刻と近づいているように思えて、薄ら寒くなってくる。このような暗澹たる現実、この悪く愚かな時を乗り越える力を私たちはどこに求めて行けばよいのだろうか。 本日の旧約の箴言、そして使徒書であるエフェソ書では、分別をもって悪い愚かな時を見分けること、そして真の喜びの宴席を見出すべきであることを語られている。一時の陶酔への誘惑から離れることをすすめるこの言葉はまさに、暴力への誘惑に晒されている現代の私たちへの警句とすら言えるであろう。そして福音書においては、真の喜びである主イエスの食卓への招きが語られている。 主イエスは「わたしが命のパン」であり、そしてさらに「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得」ると語られる。それは、一人の人としてこの地上に生きた主イエスを受け入れるということであった。主イエスを受け入れるということは、自分達の期待する強さと正しさを兼ね備えた理想的存在ではなく、この地上を生きた主イエスに結びつくことが問題となる。この後、物語が進む中で、福音書は弱さと苦しみの全てをさらけ出す方こそが、世に命を与えるパンであることを明らかにする。弱さと苦難の中を生きた主イエス・キリストの命が、その十字架によって私たちに分かち合われたからこそ、私たちは、憎悪と暴力の連鎖から解放され、苦しみと弱さの渦巻くこの世にあってなお歩むことができるのである。 私たちはそれは、嘲り、苦痛、人の弱さをことごとく担われたキリストの命を受けて、今この世を生きることが出来る。だからこそ、私たちは、人間としての弱さが受け止められる世界、喜びも悲しみも分かち合われる世界。一つの命のあり方だけでなく、あらゆる命が尊重される世界。そのような世界を目指すことが出来るのである。命のパンである主イエスは、私たちの世界に、新たな命を与えられた。その命は私たちを、真の平和へと導くのである。