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[説教要旨]2015/09/06「イエスが訪れるところでは」マルコ7:24-37

聖霊降臨後第15主日 初めの日課 イザヤ書 35:4-7a 第二の日課 ヤコブの手紙 2:1-10、14-17 福音の日課 マルコによる福音書 7:24-37 本日の福音書では主イエスが、ガリラヤから外へと国境を超え出てゆく。ティルスという地方は、ギリシア的な文化が支配的な地域であった。そのような地に主イエスが行かれたのは宣教のためではなく、「誰にも知られたくないと思っておられた」とあることから、むしろ休息のためにガリラヤを離れたのかもしれない。しかし、その主イエスのもとを、悪霊に悩む娘を連れた一人の女性が訪れる。 この母親の強い願いによって、主イエスは娘を癒される。しかし娘については、ただ「悪霊」が出てしまっていた、とだけ書かれるだけで、この物語の中では何も積極的な役割を果たしていない。娘自身が、主イエスを求めてやってきたわけでも、主イエスを信じたわけでもない。続く31節以下の箇所で登場する「耳が聞こえず舌のまわらない人」もまた、主イエスのもとにくるにあたって、自分から全く何も積極的な行動をしてはいない。しかし、主イエスはその人を癒される。これらの2人の共通点は、弱い自らの存在をただ主イエスの前にさらけ出したということでしかなかった。 この人を癒すにあたって、主イエスは「天を仰いで、深く息をつ」いたとあるが、この言葉は、「呻く」という意味で用いられることもある。この意味で受け取るならば、天を仰いで主イエスは、地上で生きる人々の悩みを、苦しみを、痛みを、主イエスご自身が受け止められ、その人々の呻きを、主イエスご自身が、天に向かってあげられたと言えるであろう。つまり、主イエスはご自身の前にさらけ出される、この地上に生きる者達の弱さを、またその弱さゆえの呻きを受け止められることを、この物語は伝えている。主イエスが訪れられるところ、あらゆる嘆きは、あらゆる呻きは、主イエスが共におられることによって、主イエスが引き取ってくださるのである。 主イエスはこの後、まさに,全ての人のうめきを身に受けるために、十字架への道を歩まれる。しかし、世界と命を造られた神はその死で終わらせることなく、新しい復活の命を造り出された。 マルコ福音書において主イエスがガリラヤでの宣教の始まりにあたって、最初に語られたのは「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」であった。主イエスの訪れられるところ、そこは新しい命が始まる、あの神の国が訪れるところなのである。そして、その訪れに触れる時、わたしたちは、本当の意味での悔い改めへと導かれる。「悔い改め」はギリシア語では「方向を変える」という意味の言葉が用いられている。私たちが、この世の諸力、暴力や権力、あるいは自分の能力や名声、そうしたものを信頼し、自らを守ろうとするとき、そこではたださらなる争い、さらなる不信、さらなる対立が生まれるだけであることを、私たちは歴史から、あるいは自分自身の人生の歩みから知っている。それゆえに、そうでは無く、ただ私たちは自らの弱さを知り、そうであるからこそ、私たちとともにおられる主イエスを信頼するしかないことを知る。そしてそれこそが、まさに真の悔い改めなのである。私たちにとっての希望、私たちにとっての慰め、それはただ、あらゆるところで、キリストは共にいてくださる、ということに他ならない。