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[説教要旨]2015/09/13「自分の十字架を背負って」マルコ8:27-38

聖霊降臨後第16主日 初めの日課 イザヤ書 50:4-9a 第二の日課 ヤコブの手紙 3:1-12 福音の日課 マルコによる福音書 8:27-38 本日の日課の最初では主イエスはフィリポ・カイサリアにいたとある。「皇帝の町」を意味するカイサリアはローマ皇帝アウグストゥスがヘロデ大王に与えた領地であり、皇帝崇拝のための神殿が建てられていた。またその他に様々な神々の神殿があった。言い換えるならば、この世で、頼りになると思われるようなもの、利益が得られそうなもの、そのようなものが立ち並ぶ街で会ったと言えるだろう。つまり、様々なこの世の力と、真の生ける神の子キリストとがこの町で対峙したとも言える。そうした事柄を背景としつつ、主イエスは弟子達に向かって、人々は自分を何者だと思っているかと問いかけえう。弟子達は、「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」と答える。主イエスの問いかけはあらに続く。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」これまで私と共に歩んできた「あなたがた」は、いや「あなた」はどうなのかを、主イエスは問いかける。この問いかけに対してペトロは、「あなたはメシアです」と応える。口語訳では「あなたこそキリストです」と訳されていた。メシアとはヘブライ語の「油注がれた者」を意味し、神から特別な任務を与えられた者ということであった。このメシアをギリシア語に翻訳したものが、「キリスト」である。ペトロの答えは、イエスが何百年もの間待ち望まれていた人物であることを、確かに言い表している。しかし、それでもなお、その答えは充分ではなかった。なぜならば、このペトロの応えに対して、主イエスは、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。」とさらに続けられているからである。 ここで語られるものは、「この世」から裏切られ、「引き渡され」、「苦しみを受ける」存在であった。それは当時の人々が、「メシア(キリスト)」という言葉に対して持っていたイメージとは正反対のものであっただろう。主イエスは「あなたこそメシアです」というペトロの言葉に対して、自らの低さ、十字架の苦難を示されたのだった。しかし、それはむしろ力強いメシアを期待する世間の人々の期待を裏切るような発言でもあった。それゆえに主イエスをたしなめようとするペトロを、しかし主イエスは厳しく叱責される。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」十字架の出来事、それは人間の理解と常識を超えた出来事であり、人間の計画と予想を超えた出来事であった。そして、主イエスによって示された福音とは、この低さの極みである十字架の出来事に他ならない。苦しみと低さの極限である十字架こそが、私たちの救いと解放の出来事なのである。 十字架を担うこととは、恐ろしく忌まわしいことである。しかし、私たちは、決して1人で十字架を担うのでは無いということを知っている。その十字架は主イエスが今も担ってくださったものなのである。まさにそうであるがゆえに、私たちが自らの苦しみと低さの極限である十字架を担う時、私たちに主イエスはもっとも近くおられるのである。