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[説教要旨]2015/09/20「すべての人に仕える者に」マルコ9:30-37

聖霊降臨後第17主日 初めの日課 エレミヤ書 11:18-20 第二の日課 ヤコブの手紙 3:13-4:3、7-8a 福音の日課 マルコによる福音書 9:30-37 今、社会は暴力であれ、財力であれ、権力であれ、強さを持ったものが正義であるという風潮が蔓延しつつあるように思われる。力で他者を圧倒することの先に、自分達の安全と繁栄があるという思いが支配的になっているように思う。しかし、聖書が語る主イエスの姿は、今私たちをとりまく力とは全く異なるものを示すこととなる。 本日の福音書では主イエスが、エルサレムでのご自身の十字架の死とそこからの復活について、2度目の予告をされている。二度目である今回もまた、弟子たちにはこの言葉が一体何を意味しているのか理解出来ず、その言葉の恐ろしさに怯えるだけであった。 そして、主イエスの言葉を理解できない弟子たちは「誰が一番偉いか」という議論をする。「誰が一番偉いか」ということ、それはこの世の中での幸せを得るために、より高い地位、より強い権力、より多くの財産を求めようとする人間の姿である。しかし、主イエスは「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて、三日の後に復活する。」と弟子たちに教えておられたのだった。 主イエスが「人の子は…」という言葉で始まる教えを語られるとき、その教えは十字架の出来事を予告している。それは、「この世」から裏切られ、「引き渡され」、「苦しみを受ける」存在であり、弟子達が期待したような「高い地位に就く」存在とはおよそ正反対のものであった。誰が一番偉いかを議論する弟子達に、主イエスは「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」と語り、一人の子どもを弟子達の間に立たせ「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」と語られるのだった。 「神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさい」と宣言し、神の国を宣べ伝え、人々を教え、癒されたた主イエスは、まさに全ての人々に仕える者として、ガリラヤの地を歩まれ、そしてさらに、エルサレムへの十字架の道へと進んでゆかれる。そしてその命を用いて、私たちに新しい命、新しい世界、真の神の国を開かれたのだった。その主イエスが「全ての人に仕える者になりなさい」と語られる時、それは主イエスが歩む、その十字架への道を共に歩むことが呼び掛けられているのである。 たしかに、十字架の道を歩むことはは決して容易なことではない。それは私たちにとって、安全と繁栄とは真逆へと向かう、恐ろしい道であるようにしか思われない。けれども、その道は、絶望と敗北に行き詰まる道なのでは無いことを、聖書は語る。主イエスの十字架の道は、私たちの思いと考えでは、絶望としか見えない先に、私たちの目には行き詰まりとしか思えないその先に、新しい命が、神の国が待っていることを聖書は語るのである。 旅の途上では、主イエスの言葉を理解することができなかった弟子たちは、主イエスの十字架と復活の出来事を通して、その意味を悟り、根底から生き方を変えられてゆく。現代に生きる私たちもまた、主イエスの十字架と復活の出来事に触れる時、絶望の先にある平和への道、新しい命への道を生きることができるのである。